『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

じゃあ、“標準的な授業”を決めて、そこから外れない教育をしましょう!ということ?

SNSの私のタイムライン等で、こちらの記事が数多くシェアされていました。

headlines.yahoo.co.jp

なるほど、ここに書かれていること自体には納得できます。一方で、この記事が
「カリスマは要らないんだよね」
「“普通”が一番だよね」
という捉え方がされたら嫌だなあ、なんて考えてしましました。気のせい、考えすぎでしょうか。記事の内容は素敵だけれど、ちょっとタイトルがキャッチーさを優先させているものに見えるため、そんな心配もしてしまいました。

 

私は不本意ながら「カリスマ」と言われる側も経験しています。
「高橋の後を担任するのは辛い」
と言われたこともありますし、
「自分が担任した後に、高橋に担任されるのも嫌だ」
という趣旨のことも言われたことがあります。自分が担任の時とどんどん変化していき、
「今年になって、大きく成長した」
と児童や保護者が言うのを聞くのがちょっとつらい。同僚を、そんな気持ちにさせてしまったようです。
以前、上司から
「これ以上学級を育てるな。他のクラスと差がつき過ぎる」
と言われた時には、唖然としました。でも、今では「それも致し方ないこと」と受け止めています。

と書くと、
「お前は自分のクラスのことだけ考えているのか?」
「学校はチームだ」
「力のある教員は、自分のクラスだけじゃなく、他のクラスも同時に育てていくのだ」
「自分のやり方が素晴らしいと言うのなら、他の人に教えればいいのに」
「他の人もやれるように、ちゃんと言語化してください」
なんて言われたことも、一度や二度じゃありません。
「はっきり言っておくけれど、そうできるならそうしたいし、あなたが考えている以上に、そして、あなたがやっている以上に、こっちはやっていますから」
と、少々怒りを込めて、ここに書いておきます。

 

カリスマ教員はいらない。他の人にも真似できる実践が大切だ。
そういう意見自体は否定しません。そういう面もあるでしょう。その結果、「じゃあ、“これが標準的な授業です!”というのを決めて、そこから外れないようにしていればいい!」という考えに至る人が多いようです。今、全国的に「スタンダード」が広まっています。広まっているのは、多くの人が望んでいるからだと思います。

 

上記の記事に、こんなことが書かれています。

ところがそのために、次の年に担任が変わると、クラスが荒れるということが何度も続くようになりました。「今度の先生面白くないんだもん」。子どもたちはそう言っていたそうです。(上記リンクより)

さて、この場合、変化・変容すべきは何でしょうか。前年度の担任でしょうか。今年度の担任でしょうか。それとも、それ以外でしょうか。
現状では、“前年度の担任”だけが責任を感じて変化・変容している状況があるように思います。
でも、それで子どもたちは幸せになるのでしょうか。ただの愚痴です、すみません。

 

苫野さんの本、読んでみようかな。(「教育の力」は読みました。)