『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

1/31である、ということ

複数の理由から、最近はずっと「1/31であること」について考えている。(分母が31なのは、今年のクラスが31人学級だからだ。)

 

以前の私は「子供たち」に向けて授業をしていた。「子供たち」に問いを出させ、「子供たち」に説明をし、「子供たち」に発問をし、「子供たち」を指名して、「子供たち」に発表をさせ、「子供たち」の意見を板書し、「子供たち」が授業のまとめをする。そう考えていた。また、「子供たち」が正しい行いをすれば「子供たち」を褒め、「子供たち」が間違った行動を取れば「子供たち」を叱っていた。私は、子供たちを大切にしていたという自負がある。

けれど、大きな勘違いがあった。

私が出させた問いは、一部の子が出したものだった。私の説明は、一部の子しか聞いていなかった。私の発問は、一部の子に向けてしていた。指名も発表も、全員は無理だ。全員の意見を板書できない。そして、まとめも、一部の子と行っていたに過ぎない。また、正しい行いをした全ての子を褒めることはできないし、一部の子が間違った行動を取った時に、長々と説教して、他の子を巻き込んでいた。クラス全員に向かい合っているつもりが、そうはならない。全体を見ていて、個々を見ていない。そういう失敗を何度も重ねてきた。

こういう指導は、いじめや不登校を生みやすいだろう。私の「子供たち」という意識の中に常に入っている子と、「子供たち」の中に入っていない子で、言わば「教室内での重要度」に濃淡が生じてしまうからだ。その濃淡が固定化され、いじめや不登校につながるケースもある、と考えている。

 

かといって、個人に拘って失敗するケースもよく見聞きする。

クラスにヤンチャな子がいて、落ち着かず、授業を妨害するようになると、授業も指導もその子が中心になってしまうようだ。「この教材なら、あの子も参加するんじゃないか」「あの子が好きなアニメの主題歌を音楽の時間に歌ったら喜ぶだろうな」「この授業は、あの子がやりたがらないだろうな。短時間で終わらせてしまおう」というように、ヤンチャな子に合わせた発想をしてしまう。また、その子が大騒ぎをし、それを先生が何十分も注意し続けてそのまま授業が終わる、その子が教室を飛び出したのを追いかけて他の子は待っている、そんな状況もよく聞く話だ。

こういう状況の恐ろしさは、「増えていくこと」にある。最初は、授業妨害をする子が一人だけだったのが、二人、三人と増えていく。そうなると、周囲の職員も慌てて加担するが、時既に遅し。場合によっては、さらに増えていくことになる。増えていく理由は簡単で、クラスが「授業妨害をする子」中心になっているからである。担任がその子にばかり目を向け、心を向けている。意識としては「半分はクラスに、半分はヤンチャな子に」といった感じだろうか。それを「羨ましい」と感じる子や「自分一人では授業を理解できず、先生の助けがないと困る」と感じている子は、何とか先生に「こっちを見て」とアピールする。アピール方法としては、目の前に簡単な成功例がある。そう、授業妨害だ。真似をして授業の邪魔をする。そのうち、行為はどんどんエスカレート。だってより強くアピールしないと、先生は見てくれないから。また、学校全体で手助けを!という行動が、マイナスに作用する。周囲の教員は、ヤンチャな子をいじりまくる。あからさまな特別扱いをする場合さえある。抱っこしたり、おんぶしたり、肩車したりするのを見たこともある。授業妨害をしていた子がちょっと授業を受けただけで、大いに褒められるのも見た。それをされている子も、見ている他の子も、どう思うだろうか。「他とは違う特別な存在なのだ」と感じてもおかしくない。ちなみに、ヤンチャな子は「特別扱い」を最初から目的にはしていない。真似をする子も同様だ。けれど、結果としてそうなる。学校が違っても、クラスが違っても、子供が違っても、大抵は結果としてそうなる。また、多くの子は親に怒られることを恐れて、アピール合戦に参加できない。アピール合戦に参加できるのは、結果として、家庭教育的に色々ある子が多くなる。家庭教育力が原因ではなく結果だ、というのが、私の結論だ。人間観察が趣味の私としては、実に興味深い。でも、それ以上に見ていて心が苦しくなるのだけれど。

この状況は、さらなる苦しさも生む。保護者からのクレームだ。若い先生がこれで潰れるのを何度も見た。私から見れば必然だけれど、当事者の担任からすれば意外な方向からのクレームでショックが大きい。

単純化した理屈はこうだ。ヤンチャな数人を何とかしなくてはいけない!と担任は精一杯頑張る。意識は100%に近いくらいの割合で、数人に向いている。それでも(正しくは「それだからこそ」なのだけれど)ヤンチャな子は問題を起こす。例えば、他の子に「でぶ!死ねよ、豚女」と悪口を言ったとしよう。担任の意識はヤンチャな子にばかり目が向いているので、指導もヤンチャな子中心だ。担任は、事情や理由を聞き、何が悪いのか説諭し、謝らせ、「もう言っちゃダメだよ」と約束させる。ヤンチャっ子は珍しく「はい。分かりました」と泣きながら反省。担任は満足。「素直に謝って偉いね」と褒める。その後の授業ではヤンチャな子も静かに勉強。よしよし、偉い偉い、と担任はご満悦。あるある、だろうな。

けれど、この場面を「言われた子」の側面から見てみよう。
特にトラブルがあったわけでもないのに、急に酷い悪口を言われた!あまりにも理不尽!たまらず、先生に伝えると、先生も「それは酷い!」と怒ってくれた。悪口を言った子も泣いて反省してる、と思いきや、あれ?何かおかしい。先生は悪口を言った子に「どうして酷いこと言ったの?うんうん、そうか、それでイライラしていたんだね」と優しく話を聞いている。そのイライラと私、何の関係もないし!「でも、悪口を言ってはいけないよ。○ちゃん、傷ついたと思うよ。そういう言葉は使っちゃいけないね」そうそう、そうだよ、死ねとか豚とか酷すぎるよ!「何か言うことはないの?そうだね、謝ったほうがいいね」ごめんなさいって言われたら、いいよって答えなきゃ。「○ちゃん、許してあげて優しいね」いや、いいよって言っただけで、許してないし!「□くん、もう言っちゃだめだよ」いやいや、先生、絶対言うと思うんだけど、本当に信じているんですか?「ちゃんと謝って、偉いね」あれ?私に悪口言ったのに、最後は褒められてるのはなぜ?しかも、次の授業では「□くん、今日はちゃんと勉強して偉いね」ってまた褒められてる。私、毎日、ちゃんと勉強しているけど、偉いなんて言われたことないよ!しかも、なんか先生ご機嫌じゃない?私はこんなに嫌な気持ちなのに。どゆこと????

この場面、極端に言えば、悪口を言ったヤンチャな子対する「先生度数」が100%、言われた子に対する「先生度数」が0%だと言ってもおかしくない。言われた子は、家に帰って親に愚痴る。「先生は酷い。悪口を言った子を贔屓する。私のこと嫌いなんだ、きっと」親は驚く。え?先生公認のいじめ?ママ友にLINEで聞いてみると…「ウチの子も言ってる。あの先生は、一部の子を特別扱いするんだって」親は焦る。全てが本当だとは思えないけれど、でも、ウチの子を守らなくては。たまらず電話。つい口調が荒くなる。私は、そういう気持ちが理解できる。私だって、家では親だ。

 

そうならないためには、50%ー50%の割合で指導すれば良いのだろうか。いや、それでも不十分だと思う。私は、先日も書いたが「1/31の先生である」というイメージで仕事をしている。クラス31名全員にとって平等に「先生」でいようとすると、極端な言い方をすれば、私の持つ能力の1/31しか向けることができないのだ。3.2%。ただでさえ低い私の能力を31等分したら、限りなくゼロに近づいてしまう。でも、ゼロにしちゃいけない。0/31と1/31では大違いなのだ。でも、その違いが分からない人が何と多いことか。1/31の先生であることは、指導の実感が薄くて寂しいから、ほぼ全ての教員は、そんな道を選ばず、目立つ一部の子にだけ注意を向けて指導する。一部の子に注意が向いていると、必然的に注意が向かない子もいることになる。多分、これを読んでいるあなたが思っている以上に、クラスの中で、向けられる意識が「ほぼゼロ」の子は多い。ある日、私は「私に話しかける子は、1日に何人くらいいるのか」を記録してみた。その日は25人だった。2年生担任なので、今年はよく話しかけられる。一言だけの子もいる。それでも25人。あと6人には、私から話しかけなければ、会話がゼロだったということになる。それを避けるために、毎朝、健康観察などで名前を呼ぶ、という話も聞く。なるほど、ゼロよりはいいかもしれない。でも、毎日毎日、名前しか呼ばない関わりだったら、それは「担任として関わった」と言えるだろうか。教育活動を行った、と言えるだろうか。ちゃんと教員として接した、と言えるだろうか。毎日呼名する、という小手先のことじゃなく、もっと教育的な関わりを考えたい。

私の場合は「一人も見捨てたくないという願い」という『学び合い』の言葉が胸に響いた。一人も見捨てたくないという願いから生じるものは、全ての子供たちに向けられている。勉強しない子がいる。人に暴力を振る子がいる。一日中、既に理解している勉強に付き合わされる。その子を見捨てることが、クラス一人々々にどう関わるのか。それをちゃんと考え、子供たちに伝えようとする人が、少しでも増えてくれたら、嬉しい。