先見の不明
ある種の覚悟を決めて書く。
私は、今年、校内のあることについて2点「これではダメだ。こうすべきだ」ということを主張してきた。しかし、周囲は理解不能だったと思う。
「いやいや、高橋さん、そんなわけないでしょう。プラスになることはあっても、マイナスになることはないですから」
「ま、あとは上手くやりますから、こちらに任せください」
そんな反応だった。私としても外れて欲しい予想だったので、それ以上の主張はしなかった。個人的にできる範囲で、それらを防ごうと努力した。
で、それから数カ月、残念ながら、私の予想は2点とも当たった。嬉しくない。悪い予想が当たって嬉しいはずがない。周囲も「言った通りでしたね」とも言わない。むしろ、それを防ごうと動いていたがために「高橋が余計なことをしたのが悪い」とされる。こういう扱いは初めてじゃないから、これまた予想はしていた。こんな予想が当たって嬉しいはずがない。
私も「私のせい?ふざけるな!どちらも私が言った通りじゃないですか!」とは言わない。威張れることじゃない。当てても、防げなければ意味はない。
私が何とかできるのは、結局は自分の教室の中だけなのだ。認めたくないけれど、認めざるを得ない現実である。
冬休み、束の間の安息を得ている皆さんには悪いけれど、2021年の苦しさは2020年の比ではないと、私は予想している。
2011年もそうだった。2011年度と、12年度、13年度の苦しさは全く別ものだった。どっちも苦しくて上下を決められるようなものではないけれど、苦しさは降り積るから確実に心身が蝕まれた。私の教員人生で最悪の経験だ。あの時は絶望の中で仕事をしていて、もしも自分に息子と娘がいなかった、どんな道を選んでいたか分からない。
同じ轍は踏みたくないので、私はできる限りの準備をしている。人生を賭けた、と言ったら大袈裟かな。
私の父は肺を患っているので、万が一の感染を考え、年末年始は帰省せずに自宅で過ごす。この期間に、私は脳味噌をブラッシュアップする。私程度の力量では、今後を無事に乗り切れるとは思えないからだ。この予想こそ、外れて欲しいけれど。
君は、生き延びることができるか?